延岡市「和田越決戦場」♪西南戦争・薩摩軍と官軍最後の激戦地【見どころ・アクセス】

📖 読了目安: 約4分

和田越決戦場(和田越決戦之地の碑)

宮崎県延岡市無鹿町にある「和田越決戦場」♪ 明治10年(1877年)の西南戦争で、西郷隆盛率いる薩摩軍と官軍が激突した最後の激戦地です。

この記事のポイント

  • 西南戦争で薩摩軍と官軍が激突した最後の激戦地
  • 薩摩軍約3,500人 対 官軍約50,000人の決戦
  • 和田越決戦史碑と野口雨情碑。駅から車で約15分
石碑と案内板のある史跡のイメージイラスト
イメージイラスト(実際の景観とは異なります)

薩摩軍3,500人 対 官軍50,000人

延岡市の資料によれば、西郷隆盛率いる薩摩軍約3,500人は、山県有朋中将指揮の官軍約50,000人に決戦を挑みましたが、物量に勝る官軍の攻撃に耐えられず北川方面へ敗走しました。

この和田越の戦いが事実上、薩摩軍にとって最後の組織的な戦闘となり、西郷はその後可愛岳を突囲して鹿児島へ向かい、9月に城山で自刃し西南戦争は終結しました。

和田越決戦史碑と野口雨情碑

現地には和田越決戦史碑と野口雨情碑が建立されています。史碑の碑文は延岡市誓敬寺の住職で郷土史家としても知られる香春建一氏によるものです。

野口雨情碑には「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に」という一節が刻まれ、敗走する薩摩軍への哀惜が詠まれています。

和田越決戦場(和田越決戦之地の碑)
和田越決戦之地の碑(写真提供:延岡観光協会)
和田越決戦場(「和田越決戦之地」の石碑)
「和田越決戦之地」の石碑(画像:Wikimedia Commons/撮影者:shikabane taro/CC BY 3.0)

基本情報

名称西南戦争 和田越決戦場
所在地宮崎県延岡市無鹿町
歴史明治10年(1877年)、西郷隆盛率いる薩摩軍と官軍最後の激戦地
記念碑和田越決戦史碑・野口雨情碑
アクセスJR延岡駅から車で約15分
お問い合わせ延岡市観光戦略課 0982-34-7833

※最新情報は延岡市公式ホームページでご確認ください。

動画で見る

動画:西南の役 和田越決戦場. 薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地.(縣人/YouTube)

地図

知っておきたい豆知識

  • 戦いの日付:延岡市公式サイトの「西郷隆盛宿陣跡資料館」のページによると、和田越の決戦は8月15日で、西南戦争で最初で最後となる政府軍と薩軍の総力戦でした。
  • 5万対3,500:兵力差ながら薩軍は善戦しましたが、戦局は悪化して北川町俵野へ退きました。
  • 薩摩軍が延岡に至るまで:宮崎県の「みやざきの文化財情報」の「南州翁寓居跡」の解説によると、熊本から退いた薩摩軍は宮崎県に入り、小林から宮崎、延岡へと移って、8月15日に延岡の和田越で政府軍に敗れました。
  • 決戦のあとの道のり:延岡市の和田越決戦場の紹介では、その後、薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島へ戻ったとされています。西郷たちは城山で自刃し、西南の役は終結しました。
  • つながる史跡:北川町俵野の旧児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)が薩軍最後の本陣で、ここで薩軍の解散が決まりました。詳しくは西郷隆盛宿陣跡資料館の記事で紹介しています。

よくある質問

和田越の決戦は、いつ行われたのですか?

明治10年(1877年)8月15日です。延岡市公式サイトでは、西南戦争で最初で最後となる、政府軍と薩軍の総力戦と紹介されています。

決戦に敗れた薩軍は、その後どこへ向かいましたか?

北川町俵野へ退き、旧児玉熊四郎邸を本陣として宿陣しました。その後、薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島へ戻ったと、延岡市は紹介しています。

問い合わせ先はどこですか?

延岡市の商工観光文化部観光戦略課観光振興係(電話0982-34-7833)です。

こんな人におすすめ

  • 西南戦争や幕末維新の歴史に関心がある人に
  • 西郷隆盛宿陣跡資料館とあわせて延岡市北部の史跡めぐりをしたい人に
  • 野口雨情の歌碑など、文学ゆかりの地にも触れたい人に

まとめ

和田越決戦場は、西南戦争終盤の激しい攻防を今に伝える延岡市の史跡。西郷隆盛宿陣跡資料館とあわせて、西南戦争最後の舞台となった延岡市北部の史跡めぐりを楽しんでみてください♪

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和田越決戦場(和田越決戦之地の碑)

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